第2のお部屋。

HSS型HSP 逆エンパス 数秘33 超変人ブログ。

わかってもらいたい、わかってくれるだろうの弊害

 

料理してた時に

ふいに気付いたこと。

 


私は基本、わかってほしい

わかってもらいたいが強い人だ

 


だけど、

わかってもらいたいがあるのがダメなんじゃなくて、

わかってあげようとか、知りたいと思ってる人に自己開示するのが普通だ

 


両者は、あげたいともらいたいが成立してるから揉めることはないだろう

 

 

 

だけど、わかってもらいたいの気持ちを

わかってあげたい、や、知りたい気持ちじゃない人に永遠と話をしたって

ただ迷惑なだけで、ただの押し付けだ

 

 

 

してもらいたいことがあるなら

してあげたい人に頼む

 


してあげたいことがあるなら

してもらいたい人にあげる

 


これは、当たり前のことなのに

 


近しい人になると

自分の目線でこれはわかってもらいたいから、きっとこの人ならわかってくれるだろうという目線で話す

 


そこにごちゃごちゃが産まれ

片や、満足、片や我慢が産まれる。

 

 

 

自分の立ち位置を知るというのは

自分が今、どうなのかを知るってことにも

繋がっていて

 


いくら、あげたい!と思っていても

いらない人にあげることは迷惑になりかねないし、

 


いくら、もらいたい!と思っていても

あげたくない人から無理矢理奪うのは

泥棒とおなじことだ。

 

 

 

わかってもらいたい

わかってほしい

、、、きっとこの人ならわかってくれるだろうという期待が持つ弊害は

 


いらない争いまで産んでしまうんだってことに気付いた。

 

 

 

私をわかってほしいなら

私のことを知りたい人に

私自身の言葉で話そう。

 


私のことを知りたいと思ってない人に

無理矢理話そうとしなくていい。

 


わかりたい、知りたいと思うことを

話したい人から聞こう。

 


そうすることが

需要と供給ということだ。

 

 

 

 


まちがえてたなぁ💦

 


仲良くしたくない人に

仲良くしてよ!って迷惑以外のなにものでもない(笑)

 


知りたくない人に

教えてあげる!って迷惑以外のなにものでもない(笑)

 


見たくないって人に

見ろ!って迷惑以外のなにものでもない(笑)

 


万人に好かれようとしなくていいってのは

こうゆうことだったんだ。

 


私のことを好きでもない人の顔色を伺って

好きにならせようとするのは

時間の無駄

 


私のことを知りたいと思ってない人に

私のことをつらつら喋っても

時間の無駄

 


私のことを大切にしたいと思ってない人に

大切にされようとするのは

時間の無駄

 


腹の奥底では知りたいと思っていないことを

永遠に聞くのは時間の無駄

なぜなら前提が知りたくないから。

 


奥底では聞きたくないと思っていることを

永遠に聞かなきゃと頑張るだけ無駄

なぜなら前提が聞きたくないから。

 


奥底では話したくないと思っていることを

話さなきゃとやるだけ時間の無駄

なぜなら前提が話したくないだから。

 

 

 

聞きたいことを聞きたい人に聞き、

話たい人と話たい事を話し、

わかりたいと思う大切な人が居るなら

その人の言葉に耳を貸し、聴く。

 

 

 

なぜこんなにも当たり前なことを

 


しなければならないや

した方がいいなどの損得で

無自覚に選び続けてしまうのか。

 

 

 

そこには

 


聞いてあげないと可哀想 とかって

勝手に相手を下に見て

哀れんでいる傲慢さとか

 


自分で自分のこと受け止めてあげきれてない部分を人に受け止めてもらうことによって一時生まれる偽の安心感とか

 


言いたくないのに言おうとすることで

相手に気に入られようとして疎外感を感じたくないがために自分の居場所を無理矢理作ろうとしてたりとか

 


聞きたくない人に無理矢理聞かせて従わせようとして

自分が凄いんだってことを相手にわからせようとしてる自己顕示欲とか支配欲とか自己満足とか

 


欲しくないと思っている人に無理矢理与えることで、してあげたという満足感や

恩を着せて自分の承認を満たそうとしたり。

 

 

 

こじれにこじれて

ほんとに今

人類はバグってる。

 

 

 

 

 

認知の歪み

認知の歪み

 


認知が歪んでいると

歪んだ世界をつくりだす。

(歪んだものの見方になる)

 


そして、その歪んだ見方で世界を見て

更に歪んだ認知をして

歪んだ世界をつくりだす

 


このループ。

 

 

 

どこかで気付くしか

その世界は変えようもなくて

 


気付くには

自覚を持つしかなくて。

 


自覚を持つには

学ぶ他ない。

 


学びを辞めてしまうことは

それは自覚も気付きも変革もない。

 


そもそもなぜ認知が歪んでいるのか。

 


それは、言葉そのものが

乱れているからだと思う。

 

 

 

私自身、当たり前に使っている言語(言葉)の意味と、それらから生じる解釈で物事を見て、ある人とは同じような見方をする一方、全く真逆の解釈で話自体が通じないという経験をした。

 


その疑問から、自分が持つ言葉の意味(レッテル貼り)と、本来の言葉が持つ語源を調べてみたら、全く違うことが多々あったり、わたしが認知していたもののあらゆることが、本来の言葉の意味とは違う意味で自分に入れこんでいることに気付いた。

 


同じ言葉を使っていても

人によってそれを受け取れる範囲がさまざまで、

だからことある事に「そういう意味で言ってない」ってなるし、喋って説明すればするほど伝わらないことが多々ある。

 


それは、本来の認識とはズレていて、言葉にさまざまな勝手な意味解釈を各々が持っているからだと気付いた。

 

 

 

私達が当たり前に使っている日本語でも

本来の言葉の配列、根本となる言葉の意味を教えられていない。

それは意図的に隠されてきたんだと思う。

 

 

 

人とわかりあうことが出来ないのは

言葉のそのものの意味解釈が統一されてないことにあると思う。

 

 

 

例えば、

「山(やま)」という言葉は「や」と「ま」という音で構成されている。

 


私たちはほとんど、すでに出来上がった「やま」という音の言葉の意味しか知らない。

 


「や」と「ま」それぞれの音に意味があることは知らない。

 


その証拠に、

なぜ「山(やま)」はその名前なのか?をたずねられても、説明出来ないはずだ。

 


「山(やま)」と教えられたから。

「山(やま)」は山(やま)だから。

 

 

 

とか、そんなふうにして

なぜなのかを学ぶことも

ほとんどしなかっただろう。

 

 

 

「や」と「ま」の音そのものの意味や

「山(やま)」というすでに出来上がった音の意味をかろうじて共通認知として持っている者同士ならば、山(やま)を見てお互いに

そうだね、山(やま)だねってなるけど

 


山(やま)に対して、山(やま)は緑で⛰️こんな形でって認知してる人と

山(やま)は土で出来ていて茶色って認知している人だと

 


同じものを見ても

片方ではそれは山じゃないとか、

片方ではこれが山だ ってなるのは当たり前。

 


山(やま)

すでに” やま ”という言う出来上がった言葉になったものに対しての意味しか学校では習わない。

 

 

 

 


人とわかりあえないのは

その人の性格でもその人の存在でも

それぞれが持つ特性でもない。

 

 

 

私たちは

音や色で世界を見てる。

 

 

 

それなのに、ひとつひとつの音の意味や

ひとつひとつの色の見方が

歪んでいたら、見る世界は歪んだ世界しか見れなくて当たり前。

 


歪みは治せる。

結果は変えられる。

 

 

 

私は、これから言霊学を学ぶ他ないと

感じている。

 

 

日本人が日本語そのものの力を理解し

言霊学を学び、実践していけば

本当に素敵な世界になると確信してる。

 

 

 

 

No title

 

Happy理論もただのツール

MOMEDもただのツール
〇〇メゾットも、〇〇教室も
誰かが作る世界観も
誰かが提供してる様々なものも

それは、ただのツール(手段)だ。

 

それそのものが目的になると
なにをやってんだかということになる。

 

外側の世界には
ツール(手段)が溢れているが
目的はそこじゃない。

 

なんのために
そのツールを使うのか。

 

なんのためにそれをやってるのか。

(習い事しかり)

 

大切なのはそもそも、
それをする ” 目的 ” はなんなのって話で。

 

買い物へ行った時
” あっ、これ〇〇に似合いそう ”とか
”これ○○が喜びそう ”
だから買って帰る。

 

こんな時、
○○に似合いそうと思ったから
〇〇が喜んびそうと思ったから

そういうのが出てくるけど

 

その、○○も、もちろん大切だけど

そのもう一個手前にある
自分から湧き出た


” 喜ばせたい ” と思う気持ちとか

” 笑顔が見たい ”と思う気持ちとか

 

もっというと

喜ばせたらどんな気持ちになるのか?

笑顔を見れたらどんな気持ちになるのか?

 

そこで出てくる ” 気持ち ” が欲しいから

それを求めている。

 

その思いに
自分が答えてあげるんだ。

それが大事だ。

 

やること(行動レベル)や、

手段(何を使って何をやるか)も大事だけど

その前の自分の思いを自分で大切にする。
そこを自分が見てあげる姿勢。

それこそが自分を大切にするということ。

 

そしてそれをしたことで起こる(出来事)結果は
全て責任を取る覚悟。

それこそが大事だ。

 

それが出来てないうちに
人のために役立つ人になろう とか
人から感謝されることをしようとか
人に与えようというワードは

それそのものの本質の意味まで辿りつけず

時に足枷となり
自己犠牲的な意味で受け止めたり
自分を自分で傷付けてしまうことになる。

 

もっと自分の本音を
自分が見てあげる。

 

自分の思いを
自分が大切にしてあげる。

 

自分の湧き出た思いや感じることを敬い、

尊重してあげる。

 

それをしてるから
自分と仲良くなれるし
自己信頼が生まれ
自信に繋がるんだと思う。

 

それが出来てるから
人に対しても腹見せ出来るし
人とも仲良くなれるし
人を信頼することが出来るし
絆を感じたりすることに繋がる気がするんだ。

 

自分のどんな側面も
自分で愛してあげてるから
(受け止めてあげているから)

人のあらゆる側面も
愛せるようになるし
受け止められるんだろうな。

 

 

人の在り方や
人の言葉に
振り回されるな。

 

私が何を感じているのか、
何を思い、私から湧き出る言葉を
大切にしよう。

 

人と同じになろうとするな。
本音ではときめいていないのに
人と同じことをしなくていい。

 

人と違うからこそ
あなた(私)は素晴らしい。

 

 

7月18日 新月🌑 2:44


幼児の自分 と

お姉さんの自分

 


進む時には 幼児の自分(恐れ、不安)を

抱きしめて進む 決意

 


恐い、不安、ほど GOのサイン

 


” どうしよう ” は決めれてない証拠

” やる ” と決める

 


出来るか出来ないかは不要

やるかやらないか

 


幼い自分と仲直り。

自信を積み上げていく。

殻を破って、鎧を脱いで自分に戻る

 

 

 

スタートの記念日

おめでとう。

 

 

とっても嬉しい気付き

 

【本当の豊かさとは】

 


7/18

夕方、ガソリンを入れに

ガソスタへ行った。

 


値段はレギュラー171円で

おもわず

「高っ!!!」って一人で叫んだ。笑

 


でもその時ふと、

 


171円が高いと感じるのは

前回の値段と比べてるってことに気付いて

 


もし比べるものが何もなかった時

171円は高いと感じるだろうかと思った時に、

答えは ” いいえ ” だった。

 


だって他に比べるものがなかったら

高いも安いもわからないわけで。

 


そうおもったら、

実際に高いガソリンであっても

今、その値段でも交換出来るお金があって

必要だと思ったガソリンを

充分に入れることが出来ることは、

なんて豊かなんだろうと思った。

 


そしたら、

ガソリン入れるというたったそれだけで

心から有難いなぁって気持ちになれたし

171円のガソリンに対して

喜んでお金を払おうと思えたし

気持ちよくガソリン入れられた一時だった。

 

 

 

たとえ、使えるお金がたくさんあっても

常に損か得かの測りに測って

自分のフィルターで損か得かを決めて

損だからの理由で必要なのに辞めようとしたり

本当は必要と思っているのに

その気持ちを誤魔化して妥協して

本当は ” これじゃない ” ってものを手にして

不満な気持ちになったり

妥協したものを手にしても

豊かな気持ちになれないのは本末転倒だ。

 


今日、この切り替えが

自然と出来たのも

ホントにホントに嬉しいし

気付けたことが

なによりも嬉しかった。💮😉

 

 

 

幸せになりなさいの呪縛


私に対して、母は言う。

 


幸せになってほしい

幸せになぁれ

幸せになりなさい

 


と。

 

 

 

私は今まで気付いてなかったようだ。

 


私はその母からの言葉を

勝手に呪縛に変えていたことを。

 

 

 

私が母と過ごした期間は

約5年間ほど。

 


小学校1年生の時には

すでに家に母はおらず

 


学校から帰っても

おかえりと迎えてもらったり

一緒にお買い物へ行ったり

隣で一緒に寝たり

抱きしめてもらった記憶はない。

 

 

 

大人になってから

母と交流が持てるようになって

 


誕生日のメッセージには

もっと幸せになぁれ とか

幸せになってね とか書かれていて

 

 

 

でも、ずっと

その言葉に嬉しさは感じてなかったようだ。

 

 

 

 


幼少期、思春期、

傍にいてほしかった時には母はおらず

 


(これも最近気付いたことだったが)

私は母に捨てられたんだと思っていた

 


本当は、幸せにしてもらいたかったのは

紛れもなく母にで、

 


私は長年、無意識に

復讐をしていたのかもと気付いた。

 

 

 

口では 幸せになりたい とか

幸せを感じられるパートナーがほしいとか

言ってはいたが

 


本音のとこでは

私は母に幸せにしてもらいたかったのに

そうはいかなかった幼少期の復讐を

私が幸せにならないことで

(パートナーを作らず、いつも何かと金銭面などで工面してもらったりしていた)

困らせていたかったのかもしれない。

 

 

 

幸せにしてくれなかったくせに

傍にいてほしいときに

一緒にいてくれなかったくせに

 

 

 

そういう小さな時の私のおもいが

私が幸せになることに

抵抗を起こしていたように思う。

 

 

 

私が幸せになったら

困らせることが出来なくなる

 


私が幸せになったら

母に助けてもらえなくなる

 


私が幸せにならないことで

母が私の幼少期と同じように

悲しむだろうと思って

(心配するだろうと思って)

復讐していたのかもしれない。

 

 

 

愛してもらえなかったという思い込みから

愛されたくて、気にかけてもらいたくて

 


母から気にかけてもらうには

私が幸せにならないことだというように

無意識にそうするようにしていたのかも。

 

 

 

愛されたかった気持ちが拗れに拗れて

愛される術を身につけたんだね

 

 

 

もう大丈夫だよ

 

 

 

そうやって今まで守ってくれてありがとう。

愛されるように

気にかけてもらえるように

 


私のためにしてくれてたんだね

 

 

 

ありがとう。

ありがとう。

ありがとう。

 

 

 

小さなわたし、

ありがとう。

 


頑張ってくれてありがとう。

 

 

 

もう大丈夫だよ。

 


頑張らなくても大丈夫。

 

 

 

 

モヤモヤの正体

 

モヤモヤさん。

 

それは、突然ふらっとやってくる。

 

現実に何か嫌なことがあったとか

何かがあったわけではないのに

長年、定期的にやってきていた。

 

でも、それがやってきたと思ったら

無意識にそれを感じないようにして

何かをやることで紛らわしてきてたなぁ。

 

今思うと、長年。

 

たぶんそれは幼少期からあって

それを感じると、どう対処していいかわからない

得体の知れない霧ががったような

掴めそうで掴めない

モヤモヤ感がだった。

 

言葉にするのも難しくて

表現するには、モヤモヤするの一言で精一杯。

 

 

その度に、

私は寂しいのかなぁとか

私は何が辛いんだろうとか

そうは思ってきたけど

よくわからなかったんだ。

 

 

何かあったわけではないのに

それは突然に、定期的に訪れる。

 

心をその感覚が

じわっと支配してくるのだ。

 

 

ここ数日(満月の次の日)から

またそれがやってきていて

 

35年生きて来て、何度も体感してるから

最初は「あぁ、またか」とげんなりした。

 

数日はまた今までと同じように

何かをすることで紛らわしてた。

 

 

だけど、年々この感覚も1日や2日で

どこかに行ってくれなくなっていて

紛らわし続けるのも限界になりつつあった。

 

 

私の中で、この何度も訪れる感覚は

なんなんだろうと思っていたけど

今日ハッキリ掴めたように思う。

 

 

それは、「虚無感」だった。

 

 

小さい頃から私は

” なぜ生きてるのか ”

” なんで私はここにいるの ”

” 私っていったいなんなんだろう ”

 

そんなことを考える子でした。

 

 

大人になってからも漠然とそれはあって

友達や恋人にも話したことはあったけど

それを明確にしたことはなかった。

 

だけど、今思えば

 

何かをやろうと意気込んでやってみるものの

どこかに

” こんなことして何になるの ” とか

” 意味ない ” とか

” 私のことなんて誰も興味ない ” とか

 

そんな気持ちは常にあって。

 

そう思ってもわざわざ

それに浸ることも、自分にそんな気持ちがあるってことも、自分で見ないようにしてたように思う。

 

だから、何かをしても

本当の意味での満足感とか、やりがいとか

充足感ってものもあまり感じられなくて

 

いつまでこれ続けるの

続けてやっても意味ないじゃんって

 

続けることにも意欲が見いだせなかった。

 

 

だから、対象となるものに

いつも理由をつけて

壊したり、辞めたり、関係を切ってみたり

逃げたり、何事もなかったかのようにしてた。

 

 

突然にふわっと湧き出てくる

私の中に同居している虚無感。

 

 

思い返せば、幼少期から

物事を ” どうせ意味ない ” って

そんなふうに見てたように思う。

 

 

 

過去を振り返ってみると

お母さんが突然家に帰ってこなくなったのが

小学校1年生になったばかりの5-6歳で。

まだなにもわからない年頃のある日、突然

父と兄姉と4人での生活が始まった。

 

お母さんと過ごしたことの最後に記憶してるのは

ピザを置いてったきり

帰ってこなくなったこと。

 

 

当時、お父さんにも

なぜ母が帰ってこないのか聞ける雰囲気ではなくて

寂しいだとか、ママに連絡してよとか

泣きわめいたり、悲しい感情も出せなかった。

そのまま何事もなかったかのように

生活は進んでいく。

 

 

そんな毎日の中で、

数日したら戻ってきてくれると思ってた小さい頃の私は、2階の部屋から母の車が戻ってきてるか確認するのが日課になって、

 

一度、母の車があった日があって大喜びする思いをした記憶があるけど、母が帰ってきていたその日のことも、その後の数日間に何があったかも

今となっては思い出せない。

 

 

ただ、その時

何かを体験し、

 

母が帰ってこないならなんの意味もないって

思ったんだと思う。

 

 

 

どこかで見た。

 

全ての感情は、母に繋がっていると。

 

 

それを感じたいから

大人になった今でも

それを感じきるために物事は起こると。

 

 

確かに、そんな一面もあるんだろうなと

今は思える。

 

 

 

突然ふらっとやってくる虚無感を

私は今まで感じないようにしてきた。

 

感じてしまったら、それこそ本当に

自分の存在価値がなくなってしまうようで

自分がココに在ること

そのものがなくなってしまうような気がしていたからだと思う。

 

 

人の役に立ってなきゃ存在しちゃダメだと思う自分や

いつも迷惑ばかりかけてしまって

人のお荷物のような自分は許されないと思う自分や

人になにももたらさないなら自分には価値がないと思う自分。

 

必死に人の顔色を見て

何か少しでも役に立たないとと必死に

家事をしていた小学生時代。

 

お母さんが帰ってくるまで頑張ろうと

自分に言い聞かせて、

頑張ってたらお母さんが帰ってきてくれると

信じてたんだと思う。

 

 

だけど、

やってもやっても人の役に立てたと思えない自分

迷惑ばかりかけお荷物になってしまうような自分

甘えてばかりで人に何ももたらせられないと思ってしまう自分

 

そんな自分をいつも自分で裁いていたし

 

こんな自分じゃダメだ

もっと頑張らないとと

 

そうやって、必死にやっていた。

 

それでもお母さんは帰ってこない。

だから

” お母さんが帰ってこないなら何の意味もない ” って

思い込んだのかもしれない。

 

 

その時に感じるはずだった虚無感を

私はそこに置き去りにしたまま

今の今まで走ってきたのかもしれない。

 

それを感じてしまったら

それこそもうこの世に居れないんじゃないかと。

 

だから大人になった今でも

誰でもいいから必要とされることに価値を置いて

何かを頑張ることで

ひと時何かを得られたような気になって

虚無感を感じることから逃げていたのかもしれない。

 

 

必死だったのかもしれない。

 

 

でも本当は

人の役に立てなくても愛されたくて

お荷物のような自分でも、

ここにいていいよって言われたくて

人に何かをもたらすことが出来なくても

存在してていいよって許されたくて

わたしが存在してる意味が

きっとどこかにあると思いたくて

 

 

だから

 

長年、ずっとそれが原動力になって

終わりのない回転車の中

ひたすら漕いで漕いで漕ぎ続けてたのかもしれない。

わけもわからず。

 

私はそれと同時に、人に

言われるがままをやってきた人生だとも思った。

 

それを選んでいたのは自分だし

そうやって人に言われることをそのまましていた方が

少なからずその人から必要とされるし

存在を認めてもらえるから。

 

 

ひと時は、必要とされた安心感とか

存在してていいのかもと思えたり

このために私はここにいるんだとか

そういう正義感も持てた。

 

だけど、それはずっとは続かなくて。

 

 

心にぽっかりあいた

なにもない感覚の虚しさは

 

恋愛をしても

大切なはずの家族と居ても

友達と居ても

本当の意味で満たされることはなかった。

 

娯楽に走ってもそれは埋まらなかった。

 

 

そよ風のようにふらっと訪れる虚無感を

長年、気付かないフリをして

紛らわす為の仕事、

紛らわす為の彼氏、

紛らわす為の友達との時間を

過ごしてたように思う。

 

 

思えばSNSで発信することも

友達とワイワイ過ごす時間も

彼氏と過ごす時間も

一人で趣味をやる時間も

 

根底にあったのは

” こんなことやったってなんの意味があるの ” って

思いがあった。

 

いつかは別れがくるのに。

いつかは終わるのに。

いつかは今のもの全てなくなるのに。

 

 

そうやって

別れや終わりや無くなるものに

深入りするのを辞めてしまったように思う。

 

無くなった時に感じる

虚しさを感じたくなかったんだ。

それは、突然母が居なくなって

大切な母を急に失って

わたしが頑張れば母は帰ってきてくれると

思い込んでたくさん我慢して

たくさん頑張って

たくさん信じて待ったけど

帰ってこなかったことで

 

 

” なにやっても意味ない ” って思ったんだろうな。

 

 

 

こんな感情が自分にあったことは

薄々気付いてる自分もいた。

 

報われない虚しさ

頑張っても届かない想い

誰にも埋めてもらえない心の隙間。

 

 

今日ハッキリとそれがわかった。

 

 

とめどなく溢れて止まらない涙。

 

 

そっか。

 

わたしがずっと置き去りにしてた感情だ。

 

 

 

 

虚しさ

 

今日はこの感情に寄り添ってみようと思う。