認知の歪み
認知の歪み
認知が歪んでいると
歪んだ世界をつくりだす。
(歪んだものの見方になる)
そして、その歪んだ見方で世界を見て
更に歪んだ認知をして
歪んだ世界をつくりだす
このループ。
どこかで気付くしか
その世界は変えようもなくて
気付くには
自覚を持つしかなくて。
自覚を持つには
学ぶ他ない。
学びを辞めてしまうことは
それは自覚も気付きも変革もない。
そもそもなぜ認知が歪んでいるのか。
それは、言葉そのものが
乱れているからだと思う。
私自身、当たり前に使っている言語(言葉)の意味と、それらから生じる解釈で物事を見て、ある人とは同じような見方をする一方、全く真逆の解釈で話自体が通じないという経験をした。
その疑問から、自分が持つ言葉の意味(レッテル貼り)と、本来の言葉が持つ語源を調べてみたら、全く違うことが多々あったり、わたしが認知していたもののあらゆることが、本来の言葉の意味とは違う意味で自分に入れこんでいることに気付いた。
同じ言葉を使っていても
人によってそれを受け取れる範囲がさまざまで、
だからことある事に「そういう意味で言ってない」ってなるし、喋って説明すればするほど伝わらないことが多々ある。
それは、本来の認識とはズレていて、言葉にさまざまな勝手な意味解釈を各々が持っているからだと気付いた。
私達が当たり前に使っている日本語でも
本来の言葉の配列、根本となる言葉の意味を教えられていない。
それは意図的に隠されてきたんだと思う。
人とわかりあうことが出来ないのは
言葉のそのものの意味解釈が統一されてないことにあると思う。
例えば、
「山(やま)」という言葉は「や」と「ま」という音で構成されている。
私たちはほとんど、すでに出来上がった「やま」という音の言葉の意味しか知らない。
「や」と「ま」それぞれの音に意味があることは知らない。
その証拠に、
なぜ「山(やま)」はその名前なのか?をたずねられても、説明出来ないはずだ。
「山(やま)」と教えられたから。
「山(やま)」は山(やま)だから。
とか、そんなふうにして
なぜなのかを学ぶことも
ほとんどしなかっただろう。
「や」と「ま」の音そのものの意味や
「山(やま)」というすでに出来上がった音の意味をかろうじて共通認知として持っている者同士ならば、山(やま)を見てお互いに
そうだね、山(やま)だねってなるけど
山(やま)に対して、山(やま)は緑で⛰️こんな形でって認知してる人と
山(やま)は土で出来ていて茶色って認知している人だと
同じものを見ても
片方ではそれは山じゃないとか、
片方ではこれが山だ ってなるのは当たり前。
山(やま)
すでに” やま ”という言う出来上がった言葉になったものに対しての意味しか学校では習わない。
人とわかりあえないのは
その人の性格でもその人の存在でも
それぞれが持つ特性でもない。
私たちは
音や色で世界を見てる。
それなのに、ひとつひとつの音の意味や
ひとつひとつの色の見方が
歪んでいたら、見る世界は歪んだ世界しか見れなくて当たり前。
歪みは治せる。
結果は変えられる。
私は、これから言霊学を学ぶ他ないと
感じている。
日本人が日本語そのものの力を理解し
言霊学を学び、実践していけば
本当に素敵な世界になると確信してる。